Interview with professionals – 学びの達人 ラルフ・エカート 

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練習や試合の日のルーティンなど、大きな試合に向けてどのような準備をしていますか?

そうですね。80年代初頭にも、私がよく練習しているのを見て同じ質問をしてきた人がいました。少し考えて、その質問に答えました。「いつかはわからないけれども、来たる将来プレーする大きな試合、大きな決勝の舞台に向けて備えています。いつどこでそうなるかはわかりませんが、自分のできる最善を尽くして準備しておきたいのです。だから毎日練習しています」と。

最近は、そういったトーナメントや決勝戦を既に経験したのか、それともまだ自分の行く末にあるのかすらわかりません。しかしやるべきことは常に同じです!年を取って調子が右肩下がりになろうとも。挑戦しなければならないのです。

ですから私にとっては重要な旅路そのものなのです。人生に対して準備するのであって、試合のみに向けてするものではありません。

少なくとも自分にとってはそうです。しかし、何らかの大舞台で勝ちたいと願う、私のレッスン生の方々にとっては、違う状況であるかもしれません。それならばスポーツ学的見地から、短期・中期・長期目標に則って考える必要があります。過程目標、質的目標、結果目標や、栄養学、身体的なバランスの話もあります。私が大学で学んだ精神的な側面も考えられます。

そうすると、この問題は非常に複雑なときもありますし、流れに沿って容易に解決できることもあります。それは人それぞれです。奥様にこれ以上負けたくないという方の場合はより簡単です。ですが、皆さんがどのような目標をお持ちであれ、私にお願いされた日にはそれもまた同じく私の目標となります。

どちらにしても、基本的な準備の1つとしては練習のゲームでもできるだけ真剣に取り組むということです。そうすれば、まるで練習であるかのように真剣勝負が楽になるでしょう。このことは、私の師匠のキム先生から教わったことです。

ビリヤードに対する向き合い方を変えた試合の中で、特に印象的な瞬間のことを思い出せますか?

80年代半ば、ミュンヘンでのチーム戦においてです。初のナショナルリーグ進出をかけた予選会でした。私が誰と当たったかは覚えていませんが、試合の流れが私にとって悪くなり、プレーが雑っぽくなってしまいました。キム先生はその試合を見ていて、私に対したときに彼が口にした言葉は忘れられません。そのときの彼の言葉はこうです。「人は何にでも慣れてしまう。試合に負けることですらね!」すぐさま私は危機感を抱きました。100%の力を尽くしてプレーしないことはともかく、それに慣れてしまうことの危うさを知ったのです。

それからその試合の流れは変わりました!ハッと目が覚め、そのことに気づき、試合に全力を注ぐことにしたのです。最終的に私はその試合に勝ちました。最上の瞬間が訪れたのは、試合後にキム先生を含めてチーム全員で夕食に行ったときです。先生は私について言及して、見た試合の中でそういった出来事があり、そのときなされるべき決断があって私がそのようにしたことについて語りました。自分の夢につながる、プロになるために必要なこと全てをやらなければならないという決断のことです。

これはドイツのナショナルレベルでの重要な一場面でした。そののち90年代半ばにはスペインでの試合にてヨーロッパレベルの、1999年のトルコと2000年のカーディフでの試合にてワールドクラスの仲間入りをする際に似たような状況を経験しました。キム先生の言葉は、他の25個のエピソードと共に、拙著『The Final Freedom自由末代』にまとめております。

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最も誇りに思っている瞬間、逆にそうでない瞬間を思い出せますか?

おそらくテレビに出演したときのことですかね。例えば、ESPN局で世界中に放送された2008年のWorld Cup of Trickshotsのときのことです。私が新しく取り入れたトリックショットがプログラム中に含まれていて、たった2回のショットチャンスしかありませんでした。練習では成功していましたが、世界中に放送されるテレビの場で成功させなければならなかったのです。非常にハードなショットで、そういった配置になれば普通の8ボールのゲームでも使えるショットです。とても緊張していて、思っていたより少し強めに撞いてしまったのですが、1回目のトライで成功させました。最高の気分でしたよ!有名なコメンテーター(アラン・ホプキンスとミッチ・ローレンス)がこのショットを「Super-shot of the Match」に選出してくれたときには、さらに誇らしく思いました。YouTubeにまだありますので探してみてください。

他には、「TVtotal」というドイツの非常に有名なテレビ番組でのことです。番組の直前まで完全に緊張していました。しかしステージに出てすぐに、落ち着いて振る舞うことができました。写真を見ても未だに信じられません。残念ながらどうやったのか本当にわからないのです。番組が始まるまでは他の方のように不安でした。しかしいざ始まると、自分の仕事にただ集中し、自分はできると感じたのです。

逆の場面ですか?おそらく長くなりますよ。ビリヤードプレイヤーならば、敗北の味を知らずして勝者にはなれませんからね。1988年のあるとき、ドイツとオーストリアの国別対抗戦がありました。当時ドイツは全ヨーロッパで非常に強かったのです。試合のスコアは11対1でドイツの勝ちでした。でもその「1」が私の試合でした。チームメイトはずっと試合結果を「11対エッカートだ!」って言っていましたね。それでも今思い返せば、受け入れて笑えるくらいの、何かしら誇りのようなものがあります。しかし、公式な舞台である欧州選手権に出場したときはいつも、わたしは持てる力を発揮できないのです。94年、95年とプレーしましたが、それ限りです。ドイツ選手権についてもほとんど似たようなものです。私はフリーのような感じでいたいと常々思っていて、連盟には所属したくないんです。その点については、今日にいたるまでアメリカの好きなところですね。

執筆活動についてもお聞かせいただけますか?ビリヤードとどのようなところが似ていますか?

そうですね。私が執筆を始めた理由は、80年代から90年代初頭にかけてのドイツで、ドイツ語のビリヤードに関する良書がなかったことにあります。キム先生のおかげで良質な理論的素地があった(キム先生はアジア哲学とともに、数学や物理学にも精通しておられます)ということもありますし、キム先生のビリヤード場(おそらくそのようなものはドイツ初でしょう)でアメリカンプールやビリヤードについての書籍、「ビリヤード・ダイジェスト」誌に触れる機会が既にあったという事情もあります。

こういった背景で、ビリヤード教本を書くことでさらにお金を得ることについて考えるのに、そう長くはかかりませんでした。しかしすぐにそうはいきませんでした。まず、当時ドイツではレッスンの需要が非常に高かったのです。映画「ハスラー2」以降ポピュラーになりつつあったビリヤードで、より上手になりたい一心からです。

私はそのとき既に地域内で上位プレイヤーだったので、レッスンを依頼するビリヤード場もありました(大抵そのビリヤード場のトップ選手がマネーゲームで私に負けたあとに依頼してきました)。それでレッスンを始めたんです。最初は気ままにやっていたのですが、何回かレッスンしたのちに、次に何を教えるのが最善か考える必要が出てきました。

そこで、無地の紙にビリヤード台を描いて、練習のドリルやショットを示す小さなノートを作り始めました。レッスンを重ねるうちに、この紙が大きなプログラムになったんです。その紙を見ていて私は考えました。「レッスンで自分が常日頃言っていること、配置図をすべて描けば、本になるじゃないか!」と。初めての自分の本を書く、という思いにとらわれて、手書きで始めたんです!それを終わらせるのにおよそ2年、その手書きの原稿を当時既に世に出ていたコンピューターに保存するのに1年、それを出版するのにまた1年かけて、ようやく1995年に自著「Modern Pool」を発刊しました。

そうすると、もうビリヤードとの共通点はわかることと思います。願望だけでは足らないのです!忍耐と鍛錬が必要なのです。知識と経験も必要です。願望を手の届く目標へと昇華させる能力、日々の小さな一歩に落とし込めることが大事なのです。

「Modern Pool」は2003年に英訳されましたが、それ以前の1999年にドイツ語版のみで「Progressive Pool」を発刊しました。2003年には「Playing Ability Test(PAT)」シリーズも始めていて、これは2006年、2007年に出版したものと合わせて3冊のワークブックになっています。

その後、ビリヤード業界が縮小してメディアへの露出も減ったため、出版社と協力するよりも自分で出版まで手掛けるほうが賢明になりました。残念ながら、(20世紀初頭の全盛期に比べると)特殊な分野の中でビリヤードが生き残るような時期では尚更です。このような事情で、直近の自著3冊はすべて自分で刊行しました。

キム先生の敬意を表して記した「The Final Freedom – Reflection of a Master Student」(2011年、英語版は2017年)、2017年刊行の自身初の小説「The Player from Singapore」(英語版は翻訳途上です)、そして最後に、より現代的な教練本「Structure」(2018年、英語版は完成していますがまだ出版していません)です。この教練本は、QRコードを用いて関連する動画を見られるようにしてあります。

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21歳の自分に向けてどのようなアドバイスをしますか?

「アメリカへもっと早い時期から行って、より長く滞在しなさい」ということですね。試合に出てドイツのベテランプレイヤーの相手をするのに時間をかけすぎてしまいました。それによって得られるのはトロフィーだけで、それがわかるまでは思っている以上に自分の素質は悪くないと考えていました。それに、ドイツビリヤード連盟やその役員との諍いにも無駄な時間をかけすぎました。彼らは私について、あらゆる場において不明確な理由で出場停止処分や資格停止処分にすることを心底喜んでやっていますからね。

何らかの理由があって覚えている特定のショットはありますか?

そうですね。真剣勝負においても数は少ないですが、いきなりそのような場面になれば、アーティスティックビリヤードで養った知識を使うことはあります。少なくとも2回、そのようなアーティスティックショットに行かなければならなかったときがあります。1回はナショナルチームでの試合のときです。的球をポケットしながら、サイドポケットに入った手球をポケットからクルッと飛び出させました。

そしてもう1回は、昔ギャンブルマッチをやっていたときのことです。多額のお金を賭けて8ボールをしていて、「ラストポケット」のルールでやりました。つまり、8ボールがラストボールの状況で、私は右側のポケットに入れなければなりませんでした。しかし、球は左側のポケットに向かって一直線の状態だったのです。そこで、アーティスティックビリヤードのほぼ定石とも言えるスリークッションショットを使って、見事自分のポケットに入れました。それ以来というもの、賭け金を支払い、キューをしまって立ち去ったスピードでその相手に勝る人は見たことがありません。

なぜアーティスティックビリヤードの道に進もうと思ったのですか?

(20歳のときの)1985年に、ドイツ軍基地の将校用カジノでのトリックショットのエキシビションをやろうと思いました。私は当時一兵卒に過ぎず、練習のためビリヤード台を使用することを許可されるために何か示すよう求められました。私は軍で15か月を過ごさなければならなかったのです。兵卒として将校用クラブに入ることを許可されなければ、練習できる可能性は基本的にありませんから、切実にその許可が必要でした!だから承諾したのです。それ以前に一度もトリックショットをやったことがないというのにですよ!

その前の週末に準備をしました。緊張しましたが全てうまくいって、そこからは兵卒でありながら将校用カジノに入ることを許可されました。そこの台で練習して、軍医たちにとてつもないハンデを振っていました。汚い訓練場で戦争ごっこをするためではなく、病院で何日か休暇を得るためにですけどね。

私の2回目のショーは1987年のことでした。住んでいた街のビリヤード場にて、地元紙の記者にお披露目しました。それからというもの、評判が広がるにつれて、ショーをやる回数が増えていったのです。その当時キム先生はビリヤード用具を扱う業者でした。そこで、彼が新規開店のビリヤード場に台を売るとき、そこのオーナーが台の価格について交渉しようとしているときはいつも、私のトリックショットショーを無料で彼らにオファーしていました。そのおかげでキム先生は定額の利益を得ていたのです。つまり、私がドイツやヨーロッパでビリヤード場を数か所「開店」し、「実践」での経験を積めたのです。

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